基本方針

「未来を創る先見的教育」


新教育で求められる力

 日本の教育が大きく変わります。科目の基礎知識は前提条件とし、その上で、実際に自身の意見を論理的に述べる力(論文)、様々な事態にも瞬時に適切に対応する能力(面接)、多様な視点・価値観の中から協力して建設的な結論を出していく力(グループディスカッション)、自分の考えをわかりやすく魅力的に伝え、他者を説得する力(プレゼンテーション)の4つの応用力が主流となります。

過去志向から未来志向へ

 日本がまだ欧米から後れをとっていた時代、前を走る先進国の文明を吸収するため、日本の教育は、知識重視で設計されました。

 しかし今や日本は世界をリードする国家となりました。先頭を走る者には、現在の情況を把握し、適切に行動する力が求められます。当然、以前とは求められる力が異なり、教育の指針も変わってきます。

 こうして欧米を追いかけ過去に追従する知識重視から、先駆者として未来を切り拓く能力重視へと変化したのです。

大学の役割の変化

 ハーバード大学のMBAが事実上ビジネス経営者養成機関になっているように、世界的にも「大学の役割」は大きく変わっています。

  かつて大学は最高学府と呼ばれ、一部の限られた人だけが進む学問の場でした。しかし大学全入時代を迎え、単に学問を追究するだけではなく、社会に出て活躍するための土台育成が必要とされてきました。

 大学の役割が変わった以上、その入試段階においても選抜基準が変わります。大学受験は勉強だけできれば良い、と言う時代から、人間としての総合的素養を測る試験に変わったのです。

 今まで「大学までの勉強は社会に出てから役に立たない」などと皮肉を言われてきましたが、これからは「学んだことが社会に出てから活きる」学社一体型の教育が施されます。若い頃に培った力がダイレクトにその後の人生に役立つことになります。

現場教育者の実態

 社会の変化→大学の変化→教育の変化と、必要要請として上から改革が降りてきた分、現場の教育者は今までにない事態に対応に窮しています。何故ならば教育者自身が学んでこなかった内容を指導しなくてはいけないからです。

  過去の知識偏重をそのまま応用し、文言やパターンを暗記させるような旧態依然とした指導が平然と行われています。入試を変革しても指導者が旧式で教えていては成果は望めません。しかし、教えられないものは仕方がありません。

人は生まれながらにして優秀

 犬や猫や猿に言語を教え、自発的にコミュニケーションをとらせたり、未来を計画して物事を判断させたりすることはできません。

 しかし、人間は他の動物にはできないような能力を沢山持っています。他の動物と比較した場合、人間は全員が天才であり優秀であるのです。

 そして、全ての人間はその自己の中に凄まじい才能を秘めています。その才能を開花させ、十二分に活かされる行動をとっていくことが「よく生きる」と言うことなのです。

優秀の阻害要素

 しかし、本来、優秀であるはずの人間も、環境によってその能力を阻害されてしまいます。

 正確に言えば、環境が直接阻害するのではなく、環境が原因で自信を無くしてしまったり、落ち込んでしまったり、過度に不安や焦りを感じてしまったりして、自己の能力の無さを実感してしまうことで、本当に能力が低下してしまうのです。

 人間は、自らの能力を自在にコントロールすることができ、封鎖してしまうことすらも可能なのです。

 能力を低下させることで周囲からの期待を薄めることができ、「自分はダメな人間なんだ」と納得することで、一時的な解放を得ることができますが、どんどんダメな人間になっていってしまいます。

自分を取り戻せば、人は誰でも優秀

 反対に、そのような環境から身を遠ざけ、自己の才能を阻害する要因をカットすれば、人は誰でも優秀のままです。

 天才とは、特別な環境を与えて作り出されるものではありません。寧ろ、才能を阻害するものを極力排除して、人が誰でも持ち合わせている先天的な才能を大切にした結果、自然と生み出されるものなのです。

劣等感の可視化

 人は誰もが劣等感を抱き、苦しんでいます。この劣等感とは「他者と比べて自分が劣っている」と言ったものではなく、「理想の自分」と比べて「現実の自分は劣っている」、と言うものです。

  「理想の自分」と言うのは、パーフェクトであり、「こうありたい」と思う自分像ですが、実際にはそうなれないから「理想」であり、現実の自分は異なります。

  漠然と「理想」と思っているから、現実との差が物凄く開いているように感じてしまいます。「理想の自分」を思い描いて終わってしまうのですが、「現実の自分」と照らし合わせて、「何が足りないのか」を具体的にピックアップしてみることが大切です。

  「そうなれるはずなのになれていない」と思うから劣等感を抱くのであり、もし「足りないもの」が現実的に不可能なものであれば、そもそも「理想」は「仮想」だったと修正できるし、「足りないもの」が現実的に手に入るものであれば、それを課題に生きる糧にしていけば良いのです。

 そして、「足りないもの」はピックアップしてみると自分が感じていたよりもずっとシンプルであるはずです。

「学ぶ」前に大切なこと

 世の中には、サッカーが好きな子とサッカーが嫌いな子がいます。

 サッカーが好きな子は、サッカー選手の魅力、試合の興奮を知って自発的にサッカーをやろうとします。一方、嫌いな子は、学校の体育の時間などで無理矢理サッカーをやらされ、魅力を感じずに渋々サッカーをやります。

 「学ぶ」と言う行為は、前者でなくてはいけません。

 すなはち、「学ぶ」魅力や興奮、面白さを知った上で自発的に「学ぶ」ことが大切です。

自分の内側の声にする

 「学ぶ」と言うことは、食料品を冷蔵庫に入れるような作業ではありません。食料品に例えるならば、食べてしまうのです。食べて自分の血や肉にし、学んだことを自分自身にすることです。

 自己の外に存在するものに力点を置くのではなく、あくまでも自分自身に重心を据えてください。自分自身が「学び」と一体になるのです。

「優秀な自己」で百戦殆うからず

 自己が不完全な状態だと、不安や焦りが生じ、失敗を重ねてしまいます。闇雲に突っ走る前に、自己の内面を高め、「優秀な自分」を取り戻しましょう。自信を持って前に進むことができ、結果として、充実した最高の人生を歩むことができます。

  「自分は優秀である」と言う自信・誇りを持つことができれば、今後、如何なる障害や困難に出会おうとも、寧ろその難題を楽しむように、容易に乗り越えて行くことができるはずです。

長期的教育計画

  多くの人が、「勉強=中学でやったこと」のように勘違いして、「高校に行ったら難しくなった」と感じていますが、それは大きな間違いです。

中学では、基礎事項の定着を徹底されるため、「作業的な勉強」が中心となる「特殊な時期」です。

 

中学の時期には自我が生まれるため、中学の勉強の仕方を、絶対的な「自分の勉強の仕方」と確立してしまう人が多いのですが、これは後々、必ず挫折します。

 

その最たるものが、「完璧主義」と「本質主義」と言う違いです。

 

中学では、宿題や課題などを「完璧」にこなすことが良いとされますが、高校からは、基本的に「完璧」など不可能です。そもそも学問領域自体に限界が存在しないんですね。

 

では、どうすれば良いか、と言うと、各事象の中で、「大切なことは何か」を考え、そこを理解する(後は捨てる)ことです。

 

例えば、関連する10個の事象があったとすると、10個とも完璧に理解するのではなく、10個の中の「大切な2個」を抽出して理解するのです。

 

よく、「量が増えるから大変だ」と言う人がいますが、「大切な2個」を絞ることができれば、量は大したことないんです。

 

大切なのは、効率良く「本質」を見抜くことです。これができれば、どんな困難も楽々突破できます。

 

さて、大学に入ったら、またまた高校までの「受動的な勉強」を捨てなければいけません。

高校までは「問題」が与えられ、答えを導くことをやらされてきますが、大学からは、全くの真っ白の用紙に自分で「問題」を発見し、自分で解決していかなければなりません。

 

今までは、「教えてもらったことを理解する」と言う「外から内」のベクトルが中心でしたが、大学からは、「自分の頭で考えて行動する」と言う「内から外」のベクトルが中心となります。